2001年12月30日。硫黄島へのアクセスは、月に11回の不定期便の三島村営フェリーしかない。役場の船舶課に電話して、送ってもらったFAXによれば、この日が出航予定日。鹿児島本港第四埠頭から出るらしい。港の有料駐車場に車を停め、今回のために購入した60Lのザックに、テント・シュラフ・食材・着替え等を詰め込んで埠頭に向かった。
ところが、11時出航なのに20分前になっても船が来ない。三島航路の待合所も閉ざされたまま。おかしいなー、と思ってふと見ると、向かいの第三埠頭に、船首に「みしま」と書かれたフェリーが着岸している。なんてこった、話が違う。あれに乗り損なえば、硫黄島へ行けるのは3日後の便になってしまう。重い荷物を背負ったまま、第三埠頭へ走った。乗船券の販売は、出航の10分前までらしいけど、なんとか間に合って、息をきらせて乗船。ふー、あぶないあぶない。
船は桜島の横を通り抜け、錦江湾からやがて外洋へ。結構うねりがあって、スリリング。文庫本を読んでいたけど、気分が悪くなりそうだったので、眠りに就いた。が、徐々に船酔いの状態に。船内は、苦しそうにリバースする声や、泣き叫ぶ幼児の声で、阿鼻叫喚。最初の寄港地である竹島までの3時間が耐えられず、私もちょっとリバース。竹島に寄港中も、揺れはひどく、船と港を結んだタラップが暴れまくっていて、港に降り立つのも大変だったようだ。竹島の人も、すごい時化だねぇ、といっていたので、やっぱりコレは普通じゃないようだ。・・・ここから硫黄島まではあと30分。もう少しの我慢である。
ふらふらになって、ようやく硫黄島に到着。 〜硫黄島は11.7平方キロメートルで、人口150人ほど。食堂の類は居酒屋が1軒、個人商店が2軒、民宿が6軒くらいといった島です〜 まいったまいったと言いながら、キャンプ場を目指す。開発センターにキャンプの届け出が必要との話を聞いていたものの、センターはもう年末休みに入っていて、どこがキャンプ場なのかもよく分からなかった。地元の方に聞いて、なんとかそれらしきところを見つけ、テントを設営。
下は芝で、背後は50mの断崖絶壁。彼方には噴煙を上げる硫黄岳が望め、すごいロケーション。トイレと水道は、村営プールのものが使えた。キャンプ場に先客はなく、アウトドア系は私と同じ船で島に来たバックパッカー一名と、バイクツーリング者一名であった。このバイクツーリングというのが、なんとスーパーカブなんですよ。荷台にトランクボックスを2つくくり付けている。なかなか斬新なスタイルではありませんか。
紅茶を湧かして飲んだあと、名湯との評判が高い東温泉へ。地形図と案内板を見ながら歩くこと40分。そこには、見たこともないような温泉がありました。海へと続く岩場の途中に、コンクリートで石を固めた湯船があり、とても開放的。湯はエメラルドグリーンに澄んでいて、清潔感も満点。ここまで遙々やってきた甲斐があるってもんです。湯舟は4つあるけど、湯がためられているのは2つで、そのうち小さい方は熱くて、とても入ることはできない。適温の方には、前出のバックパッカーが先に入っており、二人で羽を伸ばした。すると、民宿宿泊組と思われるおばさま軍団が、民宿のワンボックスカーでやってきて、私たちを遠目に見て笑っている。私たちがいなければ、入浴するつもりだったんだろうけど。逡巡した後、おばさま二人が下着姿で入ってきた。8才くらいの女の子も一人。野天風呂であるから、当然混浴なのだ。少々目のやり場に戸惑いながら、世間話。
テントに戻ってから、近くの商店で、無理を言って玉子を10個入りパックのうち5個だけ売ってもらい、それを使って、夕飯を作った。18時にもなると、もう真っ暗。LEDヘッドランプで文庫を読んだが、退屈で孤独で、強風で不安にもなったし、19時くらいで寝た。
実はこの日、地元の友人の結婚式の二次会があって、それをすっぽかして旅行に来ているのだ。こんぐらっちゅれーしょん、まいふれんど。
12月31日。晴天。島の西側を回ることにした。島の南方に突き出た永良部崎に行った。通称恋人岬。誰がこんな恥ずかしい名前を付けたのだろうか、と、伊豆の恋人岬を、手をつないで歩いたことを棚に上げて考えた。あの頃は楽しかったよなぁ・・・いや、今はそんなことは関係ないのだ。
この恋人岬公園から、出航するフェリーを見送った。前日鹿児島から入ってきた船は、もうひとつ先の黒島で一泊し、この日は逆ルートで鹿児島へ帰っていくのだ。この船を逃せば、次に鹿児島へ帰れるのは1月3日の便である。ちなみに、件のバックパッカーは、この船で帰っていった。
そのあと、飛行場やら牧場を眺め、島の西端まで散策。途中、牧場の逃げ出した牛が、私の方へ走り寄ってきた。私のウエストポーチがオレンジ色であり、それに興奮してしまったのかと、大いに焦った。車で追いかけてきた牧場の方によれば、牛の方も悪いことをしたと分かっていて、人を見れば結構神妙になるものだそうだ。将来は食肉となってしまう牛であり、それを考えると逃げ出したくもなるよなぁ、などと思った。このあと東温泉に行って、この日は終わり。
2002年元旦。6時半頃にテントを出て、初日の出を拝みに行った。考えてみれば、地元以外で年を越すのは、生涯初めてかもしれない。場所は港の東側の突き出た辺りで、雲が多かったけど、なんとか日の出を見ることが出来た。そして、テントに戻ってまた一眠り。目を覚まして行動開始。まずは島で一番大きな神社で初詣。出店がないのは当然のこと、御守りや、おみくじの自動販売機もない。さすが人口150人である。
この日は、島の北側にある坂本温泉・大谷(ウータン)温泉・穴(けつ)の浜温泉を回る予定である。冬型の気圧配置のお陰で風が強い。硫黄岳(703m)と矢筈山(343m)の間を通る道は、風が集中し、歩くのが困難なほど。これほどの強風は、ここ10年経験していないであろう。ここを歩くことに疲れ、途中で温泉巡りを断念し、この日の予定を硫黄岳登山に変更した。登山といっても、標高450mのあたりにある展望台までは車道がついており、のんびり登っていける。山肌は桜島や阿蘇と同様に、ゴツゴツしていて、男性的。一方、ここから見下ろす島も、いい感じ。手つかずの森がふんだんに残っていて、とんでもない秘境に冒険に来たような気分になった。途中で他の人に出会わなかったので、もしかすると私が2002年最初の登山者かもしれないと思うと、なんだか嬉しかったりもした。この展望台の先にも、火口までの道路がついているが、この先は南方オパールとかいう企業の道路であり、有毒ガスの可能性もあり、一般の人は立ち入りが禁止されている。仕方なくここで引き返し、恒例の温泉タイム。テントに戻って、強風の中で就寝。
1月2日。船便のある日には、スピーカーから8時頃にその案内が放送されるのだが、この日は悪天候のため欠航するとのこと。次の日に、鹿児島から三つの島を回って鹿児島まで日帰りで戻る船便を臨時で出すことになったらしい。この日は強い冬型の気圧配置であり、鹿児島では初雪を観測した日である。硫黄島も寒い。時折雨や雹もぱらつくが、しかし、次の日に鹿児島へ戻るので、この日に島の北側を回らなければならない。合羽を身にまとって、気合いと共に前日断念した強風ゾーンを歩き抜いた。が、大谷温泉・穴の浜温泉共に案内表示が全くなく、探すうちに、平家城跡に辿り着いた。ベンチがある深い芝生の広場で、嬉しくなって側転・前転などをして遊ぶ。中学生の頃に戻ったような感じで楽しい。バク転は、さすがに恐いからやらないけど。
坂本温泉へは、要所要所に案内があるので、そちらへ向かった。コレも海沿いだが、断崖を下りていく道の上から見下ろしたところ、時化のためにいろいろな漂流物が流れ込んできていて、温泉成分も茶色い泡となっていて、恐ろしく汚い。丁度しゃぶしゃぶの灰汁のような感じ。東温泉がきれいなだけに、こんなところには入れないと思い、そこで引き返す。東温泉に行くにも、この日の寒さでは服を脱ぐ勇気がなかったので、そのままテントに戻った。
1月3日。またもやフェリーが欠航するとの悲しいお知らせが流れた。これで鹿児島へ戻る便は5日までなくなってしまい、島での滞在が予定よりも2泊延びてしまった。もし悪天候が続けば、8日からは船が点検のためにドッグ入りしてしまうので、しばらく島から出られなくなってしまう。なんてスリリングな展開なんだ。もう島も一回りしてしまい、行くところが見つからない。目的もなくぶらついて、地図にない小さな祠を見つけたりして、時間を潰した。体育館が正月の間も鍵を開けっ放しであったので、そこにあったフィットネス室へ行ったり、バスケットボールを持ち出したり、卓球の壁打ちをしたり、寂しく遊んだ。2階には、硫黄岳の定点観測カメラも設置してあった。とんでもない悪天候が続けば、避難小屋としても使えるかも。
最後は東温泉で締める。
1月4日。この日はフェリーが来た。硫黄島を通過して黒島まで行き、翌日には私を鹿児島まで運んでくれることになるはずだ。三島開発センターにも温泉がある。月水金には湯を溜めてくれ、無料で入れるらしい。前日までは正月休みで入ることができなかったけど、休み明けのこの日は、金曜日だし入れるだろう、と思っていると、温泉は来週からです、と寂しいことを言われてしまった。
食材が尽きたので、島での最終日は民宿でお世話になることにした。硫黄島へ来てからというもの、使ったお金は1000円ほど。もうちょっとお金を使わないと、キャンパーは島の人から冷遇されてしまうのではないか、ということも少し考えての決断だ。収容人数が一番多い「本田」に電話したら、留守電曰く、「営業は1月20日からです」だってさ。正月はオフシーズンなのか!?
見た目には一番活気を感じられた民宿なのに・・・ 次に電話したのは東温泉に一番近い「みゆき荘」。ここはOKとのことなので、ここに泊まることにした。
チェックインのあと、温泉へ。この日は先客がいた。この日の便でやってきた大学生くらいのお兄ちゃん3人と、私と同じ日に島に入ったスーパーカブのキャンパーがそうである。よく見ると、スーパーカブは岐阜県の各務原のナンバーだ。私は近くの岐南町に住んでいたことがあったので、話が盛り上がった。彼はこのバイクで旅を続けていて、地元に帰るのは年に二回ほどであるという。羨ましい生活だ。私も半年くらいでいいから、行き先を決めない旅をやってみたいものだ。
温泉に老夫婦もやってきた。なんでも、温泉巡りを趣味としていて、500湯制覇記念に、今日ここにやって来たらしい。東温泉のことは、このご夫婦が師と崇める2400湯を回った方に教えてもらったとのことで、噂に違わぬ名湯であると絶賛していた。福島でリンゴ農家をやっており、毎年積雪の時期には1か月くらい夫婦で旅行をしているそうだ。硫黄島の後は、屋久島へ向かうらしい。こちらの夫婦も楽しそうで、非常に羨ましい。
民宿に戻ると、民宿のご主人が年賀状を眺めていた。1月4日になって、年明け最初の船が島にやってきたので、年賀状もようやく届けられたようだ。
東温泉でお会いした先ほどの老夫婦も、この民宿に宿をとっていたようだ。食事の時に東温泉の感想を伺ってみた。「今までの温泉の中でベスト10に入ります?」「ベストテンどころじゃないよ。海沿いの温泉としてはナンバーワンだよ。」とのこと。東温泉に毎日通っている私もうれしくなった。民宿の方にも、島のことをいろいろお聞きした。まず、水は地下水を汲み上げて使っていること。病院がないこの島では、急病人が出たときにはヘリが来ること。消防署もないので、自衛消防団が、年に数回訓練していること。孔雀は雑食性で、畑も荒らすこと。孔雀の餌付けは、個人的には今も続けている人がいること。・・・そうそう。この島では、観光の目玉にと孔雀を餌付けしていたのであるが、それが今では野生化しているのだ。小学校の校庭に現れたり、牧場の上を飛んでいたり、松の枝に留まっていたりなんかもします。こんな贅沢な島、他にはないんじゃないかな。
老夫婦の車で、この旦那さんと共に翌朝早くから坂本温泉・大谷温泉を回ることにした。大谷温泉のレポーターとして菊地桃子が来たときに、この宿のご主人が、場所を案内したそうだ。そのご主人に場所を教えてもらって、明朝再度探しに行くのだ。それが年甲斐もなく楽しみで、その夜はなかなか寝付けなかった。
それにしても、この夜テレビでやっていた「猪木軍 vs K-1」はちょっと拍子抜けであった。
1月5日。農家のご主人の車に乗って、まずは坂本温泉。2日に見たときには、大時化&満潮で、本来の温泉の部分が水没していたようだ。干潮のこの時間に見た坂本温泉は、なかなかいい感じ。入ってみると、底から熱い湯が噴き出していて、場所によっては火傷しそう。水深が浅いので、寝転がるような形になる。底のぬめりが少々気になったが、まだ夜明け前なので、ぬめりの正体が温泉成分の結晶、あるいは苔なのかの確認はできなかった。写真は車のランプと私のLEDヘッドランプをかざして撮影した。この温泉の近くにもキャンプ場があるけど、こちらには水場がなく、長期滞在は難しそうだ。
次は大谷温泉へ。平家城跡に続く道の途中で、ガードレールの切れ目の断崖を下りていくと、それらしき場所があった。打ち寄せる波が茶色い泡になっている箇所がある。微かに温かい。この辺りを掘れば、温泉が湧いてきそうな雰囲気であったが、この日も海は荒れており、すぐにそれを崩されてしまいそうであった。ここでの入浴は断念し、民宿に戻る。この日の船は、定刻に黒島を出たとのことである。波浪警報は出ているものの、やっと帰ることができそうだ。民宿は、2食付きで5500円。ビール代600円を合わせて、6千円にしてくれた。
入港時刻の45分前に宿を出て、初日の出を見た海岸の岩場を歩いてみた。港もそうだけど、やはりすごい色をした海である。ここも温かいんだろうなぁ。
船に乗り込むと、早速寝たふりをした。錦江湾内に入るまでは、ひたすら目を閉じて、死んだフリ。この死んだフリがバレなかったお陰で、往路と同じくらいのうねりがあったけど、なんとか酔いもせず、無事に鹿児島に戻ってこられた。
島までのアクセスが悪く、遠かったとしても、私の人生が60年以上あるのなら、是非また訪れたいと思わせる、そんな硫黄島であった。ただし今度は、波が穏やかな時期にしたいものだ。
あ、そうそう。この時期には蚊などの吸血虫は存在せず、その点では快適。海も落ち着く季候のいい時期では、そうもいかないかも・・・
(おわり)
長文にお付き合いいただき、有り難うございました。
観光案内へ 写真集へ